東京×自然
Posted on 2012.11.19
written by 後藤美奈

『チカちゃん』

 中目黒の女と下北の女、どっちがいいかとかそんな会話が電車の向かいの席から、浅い眠りの中にゆるゆると入り込んで来た。じゃあ恵比寿はどうだ、渋谷はどうだ、中央線、あ、井の頭線はなかなかいいぞ、このあたりで下り電車は多摩川を超えた。この川を超える瞬間が、とても好きだ。
横浜で育った私にとって、東京とは目と鼻の先にあるように見えて、電車に揺られながら県境を超えるときに毎日覚えるあの安心感を思えば、その隔たりは思ったよりも深いものなのだと気付かされる。憧れて、嫌悪して、今では付かず離れずの適度な距離感を保っているつもりだ。

うちに帰り、化粧を落とした鏡に映る自分の顔はまぎれもなく素顔なのだが、こうなると私はいきなりコンセントを抜かれたパソコンのようにシュンとパワーダウンしてしまう。すっぴんの私の顔は真っ白なキャンバスである。色づけしていくことによって、中目黒の女にも、渋谷の女にもなることは可能なのだ。
 今わたしたちはプロフィールを作るのに忙しい。高級バッグを持つことよりも「おしゃれに生きてる」ように見せることがトレンドなのかもしれない。その中でも顔造りは女の子にとってひとつの重要なアイテムだ。ことに東京を歩くときは万全でいたいと構えてしまうから、油断も隙もあったもんじゃない。飛び交う自己顕示欲にうんざりしながらも、自分も結局それに縛られていることに気付かされる、なんとも空しい堂々巡りだ。

九月のある日、チカちゃんという友達ができた。チカちゃんは三つ年下の、新しい職場の同僚だった。仕事の休憩時間、ロッカールームでせっせと化粧直しに励む私の隣で、チカちゃんはものすごい勢いでグリグリと両目を掻いていた。チカちゃんは、いつもすっぴんだった。そして、とても聞き分けの悪そうなクセっ毛だった。おかしいことがあると、よろよろと壁にぶつかりながら笑い転げ、たまに沸々と静かに怒っていた。九州だろうがヨーロッパだろうが、どこでもひとりでふら〜っと行くような子で、いつも何かに感動したり幻滅したり、とにかく心が忙しそうだった。近所に住み着いた野良猫の動向が気になるのと似た感じで、私はチカちゃんのことが好きになっていった。
「チカちゃんお化粧しないの?」と聞いたことがある。
「うん、なんかね、嫌なとこが強調されるような気がして、もういいよ!ってなっちゃう」
「明日してきてよ、見てみたいな」
「…わかった。じゃあ明日、バチバチにしてくる」
そして次の朝、チカちゃんは蜂にでも刺されたかのような、大きなものもらいを瞼の上に作ってやって来るのだった。
どうやら昨日の晩のうちに練習をしておこうと宝塚ばりの厚化粧を試みたのだが、それのせいだかどういうわけだか、朝起きたら目がこんな具合になっていた、とのことだった。
みるみる腫れていくチカちゃんのものもらいが、とても愛おしくなって胸が痛んだ。きっとチカちゃんはお化粧しなくて大丈夫な子なのだ。彼女はこの大都会の中でもありのままで生きている。傷ついたり、怒ったりしながらも、きちんと自分の言葉で話し、自分の表現を模索していた。
その日の帰り、チカちゃんはこれから新宿にカレーを食べに行くのと言って、六本木のネオンの中へひとりふらふらと消えて行った。
か細い彼女の後ろ姿を見送りながら、私は心に生まれた小さな嫉妬にハッとした。隙のない化粧を施し、おしゃれに生きてるつもりの私は何なのだろう。しかし、東京のど真ん中で、何か手つかずの緑を見つけたようなそんな気持ちに似ていたせいか、小さな嫉妬はすぐに暖かな幸福感に包まれた。私はいつもの帰途につき、いつもより長く眠った。

 24時間誰かと繋がれることや、いつでもこぼれるほどの情報があることが、「寂しい」の質を変えてしまったように思えたりする。今やはり、すっぴんの時間が足りてない。私しかいない、たったひとりの空間。幼かった頃はきっともっとあったはずの、当たり前の孤独。それを愛せてこそ東京は優しく居てくれるのかもしれない。
神奈川から東京へ、川を超えたときに何が起こるわけでもない。東京で浮き彫りにされる不安は、結局私自身の問題なのだ。
帰り道、ビル風に乗ってキンモクセイの香りが季節を運んで来た。そうこうしているうちに、冬の足音が聞こえてくるのだろう。
チカちゃんの描いた油絵を今度見せてもらおうと思った。さて、私は何から始めよう。それでもやはり、この街をすっぴんで歩く予定は当分ない。

(つづく)

後藤美奈

慶應義塾大学文学部卒業の後、東京芸術大学大学院映画学科にて脚本領域を専攻。在学中、筒井ともみさんの元で脚本執筆を学ぶ。
好きなもの、ダンス、動物。
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